就職してから

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人生

こんにちは! 薬剤師のタコP🐙です。お薬のお話と40代から始まった3歳になる娘の子育てについて書いています。

薬学部を卒業して就職しました。学生の時は一人暮らしでしたが、就職するにあたっては、これまで大学進学に何度も迷い、心配をかけてきたこともあって実家から通勤できる調剤薬局に就職しました。ただ、就職先は、自宅から電車で1時間半もかかるところにありました。

その薬局は最近まで院内処方だったのが、院外処方に変わったために開設された薬局でした。薬局の薬剤師は、ほとんど元の病院内の薬局で働いていた人たちで、薬局も元の病院の系列という位置づけでした。

当時は国家試験は3月で合格発表が6月であったため、合格見込みということで働き始めました。

学校の「勉強」と異なる勉強

就職してから最初の1年間は学生時代より勉強していました。覚えることは多岐にわたります。患者さんから預かった処方箋には処方された薬の内容、その使い方、入っている健康保険の情報が記載されており、健康保険の種類から職業まで推測できる場合もあります。

大学では勉強することのなかった実際の薬の使い方

ところで、大学では薬になる成分を取り上げてどのように薬が効くのか(薬理)、この成分は水に溶けやすい、油に溶けやすい(物性)ということしか、ほとんど学習しません。しかし、実務ではそれだけでは不十分です。同じ作用機序(効き方)の薬でもこっちの方が強い、弱いという順番、内科系の薬であれば、高血圧の薬、糖尿病の薬、脂質異常症の薬だけでもかなりの種類があります。これがわかっていないと薬が強いものになったか弱いものになったかわからないので、適切に患者さんに服薬指導ができません。その他、薬によって重大な副作用や頻度の高い副作用があり、服薬指導の際に伝えなければならない副作用もあります。

患者さんが払う自己負担額の計算方法

他の医療職と異なり、調剤薬局の薬剤師はお代金を直接いただくことになります。ですので、料金についてもある程度説明できなければならないのです。

処方箋を扱う調剤薬局では基本的に健康保険が適用されているため、保険の効かない特別な薬を除いて薬代の全額を患者さんが払うことはありません。保険証の種類によって1~3割の負担割合が決まっています。その他、年齢や家庭事情、特殊な病気などによって国や都道府県、市町村が料金を負担してくれるので、負担が限定的だったり、全くなかったりすることもあります。健康保険に関しても学校では教えてくれず、業務をしながら覚えていくことになります。

仕事の流れはうまく作られていた

最初に配属された薬局は1階と2階に分かれていて、1階はカウンターのみで、患者さんに薬を渡すところがあるだけで、2階で調剤した薬をカゴに入れて準備して荷物用エレベーターで1階に下ろし、受け取ったら患者さんに渡し終わった薬が入っていたカゴを2階に戻すというのが基本的な流れでした。

調剤室の中でも持ち場があり、1日中同じ持ち場でいると集中力がおちてミスの原因になるので、90分ごとに持ち場を交代するというルールにしていました。このルールはこの会社だけでしたが、この後に勤務する薬局はほとんど担当者がいて、毎日同じ作業をするという薬局がほとんどだったので、ミス防止だけではなく、担当者が休んだ時の危機管理の面からも良いルールだったなと思っています。

調剤室の中からは患者さんがどのくらい来ているかは直接見えません。1階では原則1人で薬の飲み方、使い方などを説明する服薬指導と会計を行っていました。そのため、初めの半年は2階の調剤室での仕事のみを行い、半年経って慣れてきてから患者さんが少ない時間帯で1階に立つことになりました。初めは不安でしたが、初めの半年間でどのようなことを話せばよいかをイメージできたので、対応できました。忙しくなってくれば、2階で作業している薬剤師を呼んで手伝ってもらうこともできます。

薬剤師の宿命?

仕事が楽しくなり、おおむね順調な社会人生活のスタートだったのですが、職場内は派閥があり、私より少し年上の20代の男女の薬剤師、40代のベテランの男女の薬剤師、この2組がそれぞれいつも細かいことで口喧嘩をしていて、あまり気分のいいものではありませんでした。自分は社会人になりたてで、まだまだこの世界で生きていくのに経験を積んで行かないといけないのだから、見て見ぬふりでいいやと考えていました。そうこうしているうちに1年が経ち、転勤になり、自宅から少し近い店舗に勤務になりました。

父親の病気

転勤してからも残念ながら同じように派閥があり、口喧嘩を聞きながら仕事をしていたのですが、その年の夏、父親が背中が痛いと言って痛み止めの塗り薬をずっと塗っていたのですが、全く治る気配がありません。どこかにぶつけたとか、ひねったとかいう覚えもありませんでした。いつもお世話になっている近くの開業医に何気なく相談をし、レントゲンを撮ってみると肺がほとんど真っ白だったのです!

総合病院を紹介するから、精密検査をしてもらってくださいと言われたそうです。その時は事態がよくわかっていませんでしたが、肺が真っ白ということはほとんどが肺炎か、肺結核か、肺がんのどれかのようです。どれであっても一大事です!

紹介された総合病院では肺がんの疑いで気管支鏡検査という口からカメラを入れて肺にある疑わしい組織を取ってくるという検査がありましたが、2回行って2回とも取れませんでした。気管支鏡検査は呼吸をするために必要な気管支にカメラを入れるため呼吸がとても苦しくなります。鼻で息をするように指示されるのですが、なかなかできませんでした。病院は3回目をすると言ってきましたが、本人はもうこれ以上はどうしてもしたくないということで、勤めていた薬局で薬局長にそのことを相談すると、系列病院で診察できるように手配すると約束してくれました。そして、その病院に転院することになりました。

転院した病院の初めての外来の日、私は仕事のため、夕方まで病院に行くことができませんでした。仕事の途中に連絡が入ったようで、紹介してくださった薬局長からすぐ病院に向かうように指示がありました。何事だろうと思っていくと、病院の診察室の前で本人と母親、妹がみんな泣き崩れて動けない状態になっていました。それから母親が乗ってきた車をとても運転できる状態じゃないということで、急遽私が運転を変わって帰ることになりました。内容を聞けば、父親は末期の肺がんでこのままいくと余命半年と言われたそうです。ここから父親の壮絶な闘病生活が始まります。

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タコPのお薬のお話、40代からの子育て。

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