父親の病気

記事内に広告を含む場合があります

人生

外来の待合に行くと病院の診察室の前で本人と母親、妹がみんな泣き崩れて動けない状態になっていました。それから母親が乗ってきた車を急遽私が運転して帰ることになりました。内容を聞けば、父親は末期の肺がんでこのままいくと余命半年と言われたそうです。ここから父親の壮絶な闘病生活が始まりました。気管支鏡の検査では組織を取ることはできなかったけれど、近くの開業医で定期的に取っていたレントゲンの写真と比較して肺の影の広がる速さからすると肺がんで間違いないとのことでした。

父親は私が幼少の頃からヘビースモーカーであり、一日40本以上はタバコを吸っていました。自営業だったので、比較的タバコを自由に吸える環境だったのも原因の一つです。また当時の世の中は、今では考えられないことですが、タバコのテレビCMがたくさんあり、タバコを吸うことがかっこいいという風潮がありました。

肺がんにも種類があり、父親がかかったのは小細胞肺がんといって喫煙と関係性が強い種類のものです。遅れてきた私は診察室に呼ばれて

病院のDr
病院のDr

君も医療職なのだから、しっかり病気について勉強して欲しい。抗がん剤の副作用もあるから、支えてあげて欲しい。

と言われたのでした。この小細胞肺がんは手術は効果が期待できない代わりに、抗がん剤が効きやすい種類の肺がんだそうです。毎日処方箋をさばくことだけしか考えられなかったこの時期に普段勤務している薬局では扱うことのない抗がん剤の点滴のことも本で勉強し、どのような副作用があるのかを調べ、家族としてどのようなことができるのかを考える機会になりました。

このまま父親が亡くなるようなことになったら、どのような生活になるだろうか、何より年の離れた妹が高校生であったため、これから経済的に自分が支えていかなければならないことが心配でした。

父親はそのまま診察してもらった先の病院に入院し、抗がん剤、放射線治療が始まりました。私も時々ではありましたが、仕事の後に様子を見に行く生活になりました。薬や放射線の影響で食欲がなくなり、太っていた父親がみるみるうちにやせていきました。一方で、約1週間ごとで撮影する肺の写真では白い影が小さくなり改善しているように見えました。

しかし、病院の先生には放射線でがん細胞を焼いている部分も白く写るので油断はできませんと言われました。小細胞肺がんは治ったとされる5年生存率が10%以下であり、薬や放射線はよく効くが、治療しても再発もしやすい病気です。3ヶ月あまりの入院で奇跡的に退院し、自宅近くの大学病院で経過を見ることができるようになりました。私もこのことがあってから、当時勤めていた薬局長、お世話になった先生には感謝しつつも、もう少し自宅から近いところで働こうと考え、退職することにしたのでした。

父親はそこから10%と言われる肺がん患者の生きていられる5年を生き延び、なんとか今も健在です。

今回の記事が読者の皆さんのお役に立てれば幸いです。

人生
スポンサーリンク
シェアする
takoPをフォローする
タコPのお薬のお話、40代からの子育て。

コメント

タイトルとURLをコピーしました